(1) CIS創設協定「“越冬”協議のつもりだった」
source : 2011.12.17 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
1991年12月8日、現ベラルーシ西部のベロベーシという名の奥深き森で、ソ連の解体が決まった。ロシア、ウクライナ、ベラルーシの連邦構成3共和国の首脳が調印した独立国家共同体(CIS)創設協定。ソ連崩壊を決定づけた同協定は、いかにして生まれたのか。当時のベラルーシ、ウクライナ両共和国の最高指導者に聞いた。(肩書はいずれも当時)
■シュシケビッチ元ベラルーシ最高会議議長
--ベロベーシでの会談はどのように実現したのか
「私が彼らを誘ったのだ。CIS創設が目的ではなく、ベラルーシの冬をいかに越すかという問題のためだった。融資してくれる国がなかったので、ゴルバチョフ・ソ連大統領が(1991年8月の保守派クーデター未遂事件後)、モスクワ近郊で会議を招集した際に、エリツィン・ロシア共和国大統領を(ベロベーシの森の)狩猟に誘ったのだ」
--モスクワ近郊での会議の詳細は
「ゴルバチョフ氏は(緩やかな連邦維持を目指す)新連邦条約を提示したが、私は不満を述べた。実質的にソ連大統領を長とする単一国家を意味する提案だった。エリツィン氏も厳しい態度を表明し、ゴルバチョフ氏は憤慨して退室した。それから(エリツィン氏らとベロベーシ会談の)日程を調整した後で、ウクライナのクラフチュク氏にも電話で訪問を要請した」
--その後の協議は
「12月7日に集まって将来への対応策を検討した際、ブルブリス・ロシア共和国国務長官が『ソ連は地政学的現実として、国際法の実体として、その存在を停止した-と宣言しては?』と提案したのだ。エリツィン氏は、私とクラフチュク氏が賛同した後で署名する意向を示した。翌8日の朝10時からは(3共和国の首脳・首相級の)6人で協議を重ねた。素晴らしい条文ができ、コニャックを少し飲んで祝った。結局、“越冬問題”は協議しなかった。独立を決断した以上、(ロシア共和国の)石油と天然ガスはエリツィン氏の手中にあったからだ」
--ソ連解体以外の選択肢はなかったのか
「ソ連はクーデター未遂事件で事実上、崩壊していた。公式な宣言がなかっただけだ。ゴルバチョフ氏は長期間、国を統治できていなかったが、みなそれを認めるのを恐れていたのだ」
--プーチン露首相が提唱した旧ソ連圏を再統合する「ユーラシア連合」構想をどう思うか
「(来年3月実施予定の)露大統領選に向けた政治的ジェスチャーにすぎない」(聞き手 佐藤貴生)
■クラフチュク元ウクライナ大統領
--CIS創設の立役者は
「まずはウクライナの人民だと思う。1991年12月1日の住民投票で国家の独立、つまりソ連脱退の意思を示した。このため(ベロベーシの会談で)エリツィン・ロシア共和国大統領から『新連邦条約に署名するのか』と聞かれたとき、できないと答えた。その後、(CIS創設協定の)文書作成に取りかかったが、何も決定的進歩がない宣言程度では、もはや不十分だという結論に達した」
--事態が急変したのは保守派クーデター未遂事件か
「そうだ。事件後、ウクライナのソ連脱退という問題に正面から向き合うようになった。ゴルバチョフ・ソ連大統領は修正を加えて連邦を維持すると話していたが、作り話でしかなかった。すべて過去のままに中央集権の国を維持し、全体主義体制が守られる。そんなシナリオにはもう我慢できなかった」
--ウクライナの現在の外交は、欧州連合(EU)とロシアのどちらを向いているのか
「最高会議(議会に相当)で過去に採択された『国内外政策の基本』という文書で、欧州という選択が示されている。国内にはロシアなどとの連合を最優先する政治勢力が多くある。私は欧州への道が唯一正しい選択だと思う」
--プーチン露首相の「ユーラシア連合」構想をどう思うか
「同様の構想は以前にもあった。ロシアは『自分たちが発言権の7割を持つ』などと表明してきたことを思い出す。そんな状況でどうすれば国益を守れるのか。(今回の)連合もそうした意思決定を強化するもので、国際法の精神と民主主義の原則は実現しないと思う」
--ロシアは旧ソ連圏で再び影響力を強めようとしているのか
「その通りだ。以前にも自らが主導的役割を果たせる1つの組織にまとめようと試みた。この点に疑いはない。こうした試みは昔も今も、将来も存在する」(聞き手 アナスタシア・アタヤン)
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【用語解説】独立国家共同体(CIS)創設協定
1991年12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシのソ連邦構成スラブ系3共和国の各首脳が、ベラルーシ西部の「ベロベーシの森」の公用別荘で調印。当時、ゴルバチョフ・ソ連大統領が緩やかな連邦の維持を目指して進めていた「新連邦条約」構想を葬り去った。
前文でソ連の存在停止を宣言、第1条でCIS創設を規定。領土保全と国境の尊重▽核兵器の共同管理▽ソ連が調印した条約・協定の国際的義務の遂行保証など全14条から成る。現加盟国は11カ国。
【プロフィル】スタニスラフ・シュシケビッチ
1956年、ベラルーシ大卒。68年、ソ連共産党入党。同大核物理学部教授などを歴任し、89年にソ連人民代議員。90年、白ロシア共和国(現ベラルーシ)最高会議第1副議長。91~94年、ベラルーシ最高会議議長。76歳。
【プロフィル】レオニード・クラフチュク
1958年、キエフ大卒、ソ連共産党入党。ソ連ウクライナ共和国党中央委員などを歴任し、ソ連共産党中央委員に。91年の保守派クーデター未遂事件で離党。同年12月のウクライナ大統領選で当選し94年まで大統領職。77歳。
(2)
source : 2011.12.19 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
米国の対外交渉の当事者でエドワード・ロウニー氏ほどソ連共産党体制との駆け引きを長く深く続けた人物も珍しい。米ソ対立の核心だった核兵器の交渉をニクソン氏からブッシュ氏(父)まで5代の大統領の下で担当した。しかも米軍人としては朝鮮戦争からベトナム戦争、欧州駐留まで東西対立の最前線で活動してきた。そのロウニー氏にソ連の興亡についてインタビューすると、94歳の高齢にもかかわらず、回顧をふまえての明確な見解が返ってきた。
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▼元対ソ軍縮交渉首席代表 エドワード・ロウニー氏
■「SDIが経済、軍事を弱化させた」
--ソ連の崩壊の主要因はなんだったと思うか
「ソ連の共産主義システムは哲学的に腐敗しており、やがては自滅の形で崩れることが確実だった。個人の人間が共産主義の理想の下に他の人間や集団のために完全に尽くすという完璧さがない限り、機能はできないシステムだった。それにソ連の社会がそもそも腐敗していた。西側の資本主義にも腐敗はあるが、法の支配がそれを補うことになる。だがソ連の体制は腐敗システムの維持のために個人の言論や信仰の自由をも抑圧する。このシステムの崩壊はさらに2つの要素により早められた」
--その要素とは
「第1はゴルバチョフ氏の登場だ。彼は権力を握ると、前任者たちよりは柔軟な姿勢をとり、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(開放)の策を進めた。目的は共産主義体制の効率をよくすることだったが、一度、ビンのフタを開けると中の悪魔たちが飛び出し、抑えられなくなったわけだ。とくにソ連が共産体制を無理やり押しつけてきた東欧で反発が激しくなり、体制を崩すこととなった。第2はレーガン大統領が『力による平和』策をとり、断固たる対ソ姿勢を保ったことだ。レーガン氏はポーランドの労働組合の活動を応援し、ソ連の支配を押し返させた。ゴルバチョフ氏に直接、『ベルリンの壁を取り壊せ』と迫ったような強固な態度が功を奏したといえる」
--あなたはカーター政権の対ソ姿勢には反対したことで知られているが
「カーター政権下では私はソ連との第2次戦略兵器制限交渉(SALTII)の代表だったが、1979年にまとまった条約の内容が米国側に不利なことに抗議して、辞任した。そうすると、当時、大統領選の候補だったレーガン氏から声がかかった。その後の事態の展開でカーター氏ふうの融和的、妥協的な姿勢はソ連をかえって強硬にさせるだけであることが証明された。レーガン氏に最初に会ったとき、米ソ間の核兵器の均衡に関連して相互確証破壊(MAD)について説明すると、『米国とソ連はおたがいに相手の頭に実弾の入ったピストルを突きつけているわけだから、その頭にヘルメットをかぶせる措置をとればよいではないか』と問われた。この発想がミサイル防衛、つまりSDIと呼ばれた戦略防衛構想へとつながった。このSDIがソ連を動揺させ、その経済や軍事を弱化させたのだ」
--SDIはソ連をどのように崩したのか
「ソ連は自国のミサイルがもう米国を破壊できなくなると考え、SDIを恐れ、猛反対をした。ソ連はSDIの効用を過大に評価したようだ。だがミサイル防衛の競争では米国に勝てないと、はっきり認識していたといえる。SDIがソ連崩壊に果たした役割は非常に大きい。レーガン大統領がこうした措置を国内のリベラル派や国務省の反対を抑えて、実行したことこそソ連崩壊を達成した理由だ」
--レーガン政権ではあなたは対ソ戦略兵器削減交渉(START)の首席代表となったが、同政権の強固な姿勢はレーガン大統領自身の信念からだったのか
「そうだ。私もレーガン政権の閣議に出たが、当初から国防費を大幅に増額することに対し、複数の閣僚からインフレや失業への対策を理由に国防費抑制の主張がよく出た。だがレーガン氏はいつも『大統領の最重要な職務は米国民を外敵から守ることだ』と断言して、国防費の増額を続けた。その背後にはソ連の共産主義体制を『邪悪な帝国』と呼ぶ基本認識があった」
--ソ連との交渉中にソ連の崩壊を予想したことがあるか
「ソ連との軍縮交渉に参加した米側の人間の大部分はソ連の体制がやがては崩れると思っていた。あるとき、みんなで崩壊の時期を予測しあうと、2050年とか2010年という説が出た。私は2003年と答えた。結果として私の予測が現実のソ連崩壊の年(1991年)に最も近かった」
--米ソ間の核兵器をも伴う第三次世界大戦の危険を実感したことはあったか
「数回はあった。62年、ソ連が核ミサイルをキューバに配備したときが最も心配だった。ソ連側の指導者も理性的であれば、破局的な戦争は決して望まないとわかっていても、当時のフルシチョフ第一書記は合理性や理性に欠けていた。だがゴルバチョフ氏のときは最も安心できた。彼の理性を信じたからだ」
--米ソ間の87年の中距離核戦力(INF)廃棄条約の成立プロセスでもあなたは重要な役割を果たしたとされているが
「ソ連は当初、自国の中距離核ミサイルSS20を西側の中距離ミサイル撤廃と引き換えに欧州からは全面、撤去するものの、ウラル山脈東側、つまりアジア地域には保存しておくという主張だった。そうなると、日本に届くSS20が多数、残ることになる。レーガン政権内でも、欧州のソ連の中距離核がなくなるのだから、それでもいいだろうという意見があった。だが私は当時の中曽根康弘首相の強い要望を入れ、SS20の全廃棄をレーガン大統領に進言した。その案を大統領は受け入れ、ソ連に譲歩させたわけだ」
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【プロフィル】エドワード・ロウニー
1917年、メリーランド州生まれ。陸軍士官学校卒業後、欧州、太平洋両戦線に参加、日本占領の米軍司令部にも勤務する。朝鮮戦争、ベトナム戦争に参加、北大西洋条約機構(NATO)軍司令部勤務を経て71年から対ソ戦略兵器削減交渉の任にあたる。以来、ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ(父)歴代5政権でソ連との核軍縮交渉にあたった。
(3)
source : 2011.12.26 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
ちょうど20年前の1991年12月25日(現地時間)、ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフ氏(80)が独立国家共同体(CIS)の発足を受けて辞任を表明、ソ連は約70年の歴史に幕を下ろした。同氏のペレストロイカ(改革)を外相として支えたエドアルド・シェワルナゼ氏(83)、ゴルバチョフ氏の側近だったアレクサンダー・リコタル氏(61)に当時の話を聞いた。
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▼元ソ連外相 エドアルド・シェワルナゼ氏
■「私の決断を誇りに思っている」
--1985年にソ連外相に抜擢(ばってき)されたときのことを覚えているか
「ゴルバチョフとは70年代からほぼ同じものの考え方をする友人として親しくしていた。彼が共産党書記長に就任してから約4カ月後に突然、グルジアの党第1書記だった私に電話を寄越し、中央委員会の国際問題担当書記か外相のポストを提示した」
--ソ連外相時代の最大の功績は何だったと思うか
「第1に冷戦を終結させたこと、第2にアフガニスタンからのソ連軍撤退、第3にハンガリーやチェコスロバキアといった東欧諸国を解放したことだ。少し後にドイツ統一もあった」
--冷戦終結やドイツ統一について、ソ連や東側陣営の敗北だといった感情はなかったか
「なかった。私たちは当時、新しい世界について語っていたのであり、統一ドイツもその一員となったのだ」
--米ソ軍拡競争の問題については
「(宇宙空間にミサイル迎撃システムを配備する)レーガン米政権の戦略防衛構想(SDI)が深刻な脅威となっていた。私とゴルバチョフが核研究者らに話を聞いたところ、彼らは当初、そんな兵器をつくるのは不可能だと言っていた。だが、2週間後になって彼らは謝罪し、前言を撤回した。国の経済事情が許せばそうした兵器をつくるのは可能であり、米国に10年か12年必要だとすれば、ソ連は20年か25年かかるという。ここから対米関係改善のプロセスが始まった」
--ソ連の崩壊を避けることはできたか
「ソ連は社会主義の帝国であり、すべての帝国は崩壊してきた。私はソ連外相だったときから、他のあらゆる帝国と同様に、ソ連が遅かれ早かれ必ず崩壊すると思っていた。ただ、私はそれが4年後でなく10年か12年後に起きると思っていたので、時期は誤った」
--グルジア大統領を辞任することになった「バラ革命」については
「新議会での演説中に武装した人々が侵入してきた。軍に(デモ隊の)制圧を命じることもできただろうが、そうすれば同じグルジア人の血が流れる。非常事態令を出してから30分後、私は帰宅途中の車から電話してそれを撤回し、自宅に戻って妻に『血は流れない。私はもう明日から大統領ではない』と言ったのだ。『アラブの春』で不断に血が流れている現状を見るにつけ、私は自分の決断を誇りに思っている」
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【プロフィル】エドアルド・シェワルナゼ
1928年1月生まれ。72年からグルジアの共産党第1書記。85年、ソ連のゴルバチョフ書記長に抜擢されて外相に就任。ゴルバチョフ氏の右腕としてペレストロイカ(改革)と新思考外交を担った。90年12月、保革の対立が激化する中で外相を辞任。ソ連解体後はグルジアの第2代大統領となるが、2003年11月、議会選挙で不正工作があったと野党支持者らが議会に押し寄せ、辞任を表明した(バラ革命)。
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▼元ソ連大統領副報道官 アレクサンダー・リコタル氏
■「権力失っても改革の道選んだ」
--ソ連崩壊の教訓は
「独立を求める国民的願望や、民主主義と透明性の高い社会の構築、そして市場を軽視してはならないということだ。独立を求める国民的願望こそ、ペレストロイカのつまずきのもととなった。また、ゴルバチョフ氏は市場の意味が分かっていなかった。成熟した市場が存在していればソ連の統合を維持できただろう」
--ゴルバチョフ氏はソ連崩壊を予期していたのか
「彼は1988年の国連演説で、チェコスロバキアへの軍事介入を正当化したブレジネフ・ドクトリンの放棄を表明した。89年までに共産主義体制を壊して新しい体制を構築しなければならないことは認識していたが、ソ連が崩壊するとは一度たりとも思ったことはなく、連邦という形でソ連を再建できると考えていた」
--ソ連の崩壊は不可避だったのか
「そうだ。ペレストロイカは、潜水夫が水中をゆっくり上昇して減圧するように崩壊の衝撃を和らげた」
「85年時点でソ連には4万台のコンピューターしかなかったが、米国には400万台もあった。またソ連で生産される製品の92%は国際市場での競争力を失っていた。ソ連崩壊を導いたのは、ペレストロイカでもゴルバチョフ氏でもエリツィン元ロシア大統領でもなく、発展が暗礁に乗り上げたことによる自然の帰結だった」
--91年8月の守旧派クーデターはどうだったのか
「ゴルバチョフ氏がクリミア半島の別荘で軟禁された際、ライサ夫人が重度の脳卒中に見舞われ、片方の目がほとんど見えなくなった。クーデターが失敗に終わった後、ゴルバチョフ氏は市民が集まるロシア共和国最高会議ビルに直行し、演説すべきだったとされるが、ゴルバチョフ氏は家族を自宅に連れて帰り、夫人に治療を受けさせたのだ」
--その後ゴルバチョフ氏は求心力を失った
「軍事力を使って権力を維持するより、権力を失っても改革が進む道を選んだ。91年にシャポシニコフ国防相がゴルバチョフ氏に『あなたの命令があればソ連崩壊を阻止する』と伝えたときも、彼は『私には軍事力行使という悪夢を考えることさえできない』と答えた。苦い体験だった。権力を失うことよりもペレストロイカの将来を案じたからだ。ゴルバチョフ氏は人間の命より重い政治目的などないという理想主義者だった」
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【プロフィル】アレクサンダー・リコタル
元ソ連大統領副報道官。1989年からゴルバチョフ氏のスピーチライターを務め、90年後半以降は単独で面談を許された側近の一人。現在は、ゴルバチョフ氏が創設した環境団体「グリーン・クロス・インターナショナル」(本部・ジュネーブ)の会長を務める。
エピローグ 新しいロシア人の胎動
source : 2011.12.27 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
東西冷戦の一翼として世界を二分した超大国、ソ連のゴルバチョフ大統領が辞任し、ソ連が消滅して25日で20年が過ぎた。最高実力者、プーチン首相(前大統領)の長期支配で「安定」が続くかに見えたロシアでは24日、ソ連崩壊後で最大規模の反政権デモが行われるなど、20年を経て再び、民主主義を求めるうねりが起き始めている。
1991年12月25日夕、モスクワのクレムリン宮殿には「槌と鎌」のソ連国旗に代わって、ロシア国旗が掲揚された。それから20年後、クレムリン前の「赤の広場」はクリスマス行事のために閉鎖され、観光客らがうらめしそうに引き返す姿が見られるだけだった。
東シベリアのイルクーツクから来たという女性(39)は「かつてはこうして旅行することなどできなかった。この20年間で暮らしが良くなったのは確かです」と語ったものの、「ソ連消滅から20年」であることは忘れていた。
この1年間、本連載を通じて旧ソ連各地から「20年後の今」を伝えてきた。その中で印象に残っているのは、「ある程度の生活が確保されさえすればよい」と、政治からは距離を置くロシア人の伝統的心理だ。
スターリン時代に強制収容所の集積地だったロシアの東の最果て、マガダンでは、弾圧された経験者でさえ「当時は秩序があった」とスターリンを評価した。逆にソ連解体の立役者、エリツィン初代ロシア大統領は故郷のウラル地方ですら不人気で、1990年代の急進改革とそれに伴う大混乱が人々に残した傷の深さを思わせた。
2000年に大統領に就任したプーチン氏はこうした「安定」を望む国民心理を踏まえて強権統治を復活させ、国民の支持を得た。
しかし、モスクワで24日、主催者発表で10万人以上が参加した反政権デモは、強権に隷従することには満足しない「新たな層」がロシアにも生まれている現実を示している。ゴルバチョフ元ソ連大統領も同日のラジオ番組で、「プーチン氏に権力の座を去るよう助言したい」と明言した。
広大なロシアの大半では今も「伝統的ロシア人」が多数派であり、来年3月の大統領選ではやはりプーチン氏の当選が堅い。プーチン氏が「新しいロシア人」の胎動をどう感じ、政治にどう反映させるのか。それが、混乱と安定に続くロシアの将来を左右する。
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