(1)ユーゴ負の遺産「裸の島」
source : 2011.10.27 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
債務危機が深刻化し欧州統合への懐疑が広がる中、それでも「欧州への道」をひた走る国々がある。ソ連の独裁者スターリンによってソ連圏から追放され、チトー(1892~1980年)の指導で独自の共産主義を歩んだ旧ユーゴスラビア諸国だ。ソ連が崩壊した91年にユーゴ連邦の解体が始まり、血で血を洗う内戦の後遺症で旧ユーゴ諸国は欧州統合から長い間、取り残されていた。
ユーゴ解体から20年-。欧州連合(EU)への加盟準備を急ぐクロアチアにはしかし、消すことができない“もう一つの共産主義”の傷痕があった。
■避けられぬリストラ
アドリア海に面したクロアチア西岸の港湾都市リエカ。45年5月3日、ナチス・ドイツの占領から解放されたことを記念して「サード・メイ(5月3日)」と名付けられた造船所がある。
ここで30年間働くエディ・クーチャン社長(56)は「今後2年間で300人の従業員を削減しなければならない」と頭を抱える。
クロアチアの人口は約440万人。北海道の7割弱の国土に6つも造船所があり、90年代初めには日本、韓国に次ぐ世界3位の造船受注量を誇った。しかし、91年から始まった内戦で世界から取り残され、今では12位に低迷する。EU加盟の条件は造船所への政府援助を打ち切り、民営化と合理化を進めることだ。人員削減は避けては通れない。
旧ユーゴは90年代の内戦によりスロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの6カ国に分裂した。
欧州の巨大市場に加われば発展と繁栄が約束される-とばかりに、インフラ破壊など内戦の後遺症に苦しむ旧ユーゴ諸国はEUの門前に列を成した。
まず、スロベニアが2004年にEU加盟、07年には単一通貨ユーロを導入した。クロアチアは来年7月にもEU加盟を果たす。EUの執行機関、欧州委員会は今月、セルビアに加盟候補国の地位を与えるよう提言するとともに、加盟候補国モンテネグロとの加盟交渉開始をEUに勧告した。
「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という多様性に富むユーゴをまとめたのはチトーである。
しかしスターリンは、チトーの自立的対外政策に激怒。1948年、ユーゴをソ連圏から追放した。
スターリンの影におびえるチトーはソ連寄りとみなした人物を次々に粛清していく。その数は3万2千人とも6万人ともいわれる。
■閉鎖まで脱走者ゼロ
粛清の舞台となったのが、チトーが極秘につくった思想矯正施設だった。セルビアのタンユグ通信元東京特派員のドラガン・ミレンコビッチ氏(63)の亡父、スウエトミル・ミレンコビッチ氏はチトー時代、リエカからバスとフェリー、ボートを乗り継いで3時間半かかった「ゴリ・オトク(裸の島の意)」の思想矯正施設に送られた。
夏は灼熱(しゃくねつ)地獄と化し、冬は酷寒の地に。草木一つ育たなかったという島は「裸の島」と呼ぶにふさわしい。周囲の海流は速く、88年に閉鎖されるまで脱走できた者は一人もいないという。ドラガン・ミレンコビッチ氏と裸の島に向かった。
■チトーの粛清舞台 過酷な思想矯正「西側は黙視」
1948年から58年にかけて、クロアチア沖に浮かぶ「ゴリ・オトク(裸の島)」の思想矯正施設には、ソ連寄りとみなされた人々が続々と送られた。その後、一般犯罪者も収容され、88年に閉鎖。公式記録はすべて破棄された。「スターリンに抗したチトーを支援した西側は“裸の島”に目をつぶったのだ」と元収容者は憤る。裸の島で何が起きたのかを知るには、人々の記憶をたどるしかなかった。
■多く語らぬ収容者
海水浴客の歓声が響く港から裸の島に足を踏み入れると、廃墟(はいきょ)の壁に記された文字のいくつかが目に入った。セルビアのタンユグ通信元東京特派員、ドラガン・ミレンコビッチ氏(63)に聞くと、「チトー万歳」という意味らしい。
同氏の亡父、スウエトミル・ミレンコビッチ氏は17歳でユーゴ共産主義青年同盟に入り、パルチザンとしてナチス・ドイツと戦った。42年、ナチスの捕虜となり、ベオグラードの収容所へ。44年10月、収容所は解放され、スウエトミル氏はソ連軍に合流した。
ソ連圏からユーゴが追放されて2カ月後の48年8月、スウエトミル氏は妻のドゥシャンカさんと外食に出かけ、帰宅したところを秘密警察に逮捕された。その後5年にわたって裸の島に収容されるが、2007年に他界するまで家族に多くを語らなかった。
ただ、ミレンコビッチ氏は子供のころ、父と“獄中”生活を過ごしたという漁師から、裸の島の話を聞いたことがある。
その漁師は「共産党員は言行不一致」と皮肉っただけで裸の島に送られた。スウエトミル氏は戦争末期にソ連軍に合流したため、ソ連共産党との関係を疑われたようだった。スウエトミル氏のズボンには赤いラインが縫いつけられていた。「矯正を要す」の印で、看守だけでなく仲間からも棒で殴られていたという。
■汚物混じりの食事
元収容者に会うためセルビアの首都ベオグラードを訪れた。ミヨドラグ・ガイチ氏(87)の“暗い記憶”は想像を絶していた。
裸の島では、特にソ連寄りとされた者は深さ8メートルの竪穴「ピーターの穴」に収容された。汚物混じりの水で食事が作られ、チフスで2カ月間に約230人が死んだ。食事に女性ホルモンが注入された結果、胸部が乳房のように膨らむ男もいた。ある収容者は、自分の頭にねじくぎを金づちで打ち込んで自殺した。死者は証拠を残さないようミンチにして処理されたという。
1953年、思想矯正施設の待遇が突然改善された。チトーが恐れていたスターリンの死亡時期と重なる。
チトーがいかに裸の島を秘密にしようとしていたかを物語る逸話もある。
元収容者の証言集「ゴリ・オトク」をまとめた作家のドラゴスラヴ・ミハイロビッチ氏(80)は、自らも収容された経験をもつ。ベオグラードで会った同氏は、自著「南瓜の花が咲いたとき」が劇場で上演された69年の出来事を明かした。
公演6日目、妻と劇場を訪れると真っ暗で、俳優が泣き崩れている。助監督が「チトーの演説を聞かなかったのか」と叫んだ。チトーは「芸術は共産主義と相反するものであってはならない」とミハイロビッチ氏を批判したという。
主人公の家族が裸の島に収容されたことを思わせるくだりがあり、チトーの逆鱗に触れたのだ。ミハイロビッチ氏は「そんなつもりはなかったが、裸の島が体に染み込んでいたのだろう」と語る。本は9年間発禁、劇は14年間上演禁止となった。同氏は78年、元収容者からの聞き取りを始めた。裸の島の事実を後世に残せるのは自分しかいない-と覚悟したからだという。
■恐怖植える“装置”
タンユグ通信元東京特派員のドラガン・ミレンコビッチ氏は、亡き父が“獄中”で母に書いた手紙を取り出し、裸の島の乾いた大地に置いた。「チトーが指導者として祖国のために尽くしていることがわからなかった」。自己批判の言葉が連ねられていた。
「裸の島は恐怖を植え付ける“支配の装置”だった。でも、チトーがスターリンから守ったユーゴは内戦で崩壊した。一体何のためにこの島は存在したのだろう」。ミレンコビッチ氏は声を絞り出すように言った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
■【プロフィル】チトー
本名はヨシップ・ブロズ。1892年、現クロアチア領に生まれる。1920年、ユーゴスラビア共産党に参加。ナチス・ドイツ占領下の40年代、パルチザンの指導者として台頭。43年、元帥、首相に。48年のソ連圏からの追放後は非同盟運動のリーダーとして、ソ連とは一線を画す独自の社会主義政策を採った。53年から大統領。80年に病死。
(2)米経済病んでも「反共」不変
source : 2011.10.28 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
ソ連共産党の崩壊から20年、米国ではいま共産主義をどのように受けとめているのか。
共産主義とはよく対極に位置づけられる資本主義のシステムが、このところ米国では大きなひずみやきしみを示すようになった。資本主義とその発露である自由市場経済の欠陥が指摘されることが多くなった。最近のウォール街でのデモに象徴される経済の現況への抗議活動もその延長だといえよう。不況、失業、貧富の差など「資本主義の過剰症状」への抗議である。
だからその反動で、かつては完全に否定された共産主義が墓場からよみがえる兆しがあるのかといえば、答えは疑問の余地なしのノーである。だが、共産主義の代役の意義を体するように社会主義という言葉がこのところ米国では頻繁に登場するようになった。
■社会主義的な政策
大手ニュース週刊誌のニューズウィークが「われわれはいまやみな社会主義者だ」という特集を巻頭記事で組んだのは、オバマ政権の誕生後間もない2009年2月だった。この記事は、オバマ政権が景気対策として1兆ドル近くの政府資金を一般経済に投入する政策などの特徴を「社会主義」と評したわけである。
オバマ大統領は以後、社会主義者のレッテルを貼られることも多くなった。破綻した民間大企業を政府資金で救済する。医療保険も政府運営の部分を多くする。大企業の幹部の給料の上限を仕切る。高所得層への課税を強め、富の再配分を図る。いずれも国家が生産手段を所有し、管理し、マクロ経済も計画を適用する-といった社会主義の特徴が目立つというわけだ。
だが社会主義という言葉自体、米国民多数派にはきわめて負の響きが強い。オバマ政権も自分たちを社会主義者と決めつけることには断固、抗議し否定する。
その背景には、自らを社会主義や共産主義とは正反対の立場に立つ保守主義者だと認める米国人たちが一連の世論調査で40%前後を占めるという実態が存在する。ちなみに自らをリベラル派だとみなす人は20%前後であり、まして自分を公然と社会主義者だと認める人は統計上、ゼロに近い。
米国民のこうした態度は、対象が社会主義の一種だともいえる共産主義となると、さらに反発が激しくなる。米国で社会主義といえば、まず複数政党や議会制の政治形態をともなう西欧型の社会民主主義を指すが、共産主義は一党独裁、個人の抑圧、市場経済活動の禁止などマルクス主義としてまた別扱いである。
だから現実の米国政治で最も左に位置する超リベラル派でも、「共産主義は現実の統治では経済的な失態だけでなく、人間の本質も否定する結果を示した」(政治評論家マイケル・キングズレー氏)と突き放す。
■中国の「独裁」非難
米国議会も中国に対し経済面や対テロ闘争などでの連帯の重要性を認めながらも、中国共産党の民主主義否定の独裁統治には超党派の非難を浴びせ続ける。米国が米国である限り共産主義支配は許容できないとする、冷戦時代にも一貫して保った姿勢だといえよう。
しかし米国の一部にはソ連のような現実の共産主義体制があったからこそ、アンチテーゼたる資本主義も身を正すことができたという論調もある。
保守派の政治評論コラムニストのアルノー・デボルグラフ氏は3月、「米国などの資本主義世界は共産主義や社会主義の挑戦に(冷戦中の)40年間も直面していたために、経済活動での倫理を保ち、自由奔放の過剰を自粛する効果があった。が、いまやその抑制が消えて、腐敗が広がった」という趣旨の論文を発表した。かといって共産主義の長所を認めたわけでは決してない点が、反共国家の米国の素顔を改めて示したといえよう。
(3)消えた北方の脅威 中国台頭
source : 2011.10.29 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
ソ連崩壊20周年の今年は中国共産党政権にとって党創立90周年、辛亥革命100周年の記念すべき年となった。清朝を倒した辛亥革命6年後のロシア革命で帝政ロシアが崩壊しソ連が誕生。そしてソ連の支援下で中国の社会主義革命が始まった。世界史は無数の相互連鎖のもとに進行している。とはいえ、ソ連崩壊が今世紀の中国大台頭の契機となることを予想した歴史家がいただろうか。
「わが党はわが国の社会主義建設の経験と外国の経験を参考に、巨大な政治的勇気をもって改革・開放を実行。社会主義市場経済体制を打ち立て、世界が注目する偉大な業績をあげた」
胡錦濤国家主席は7月1日、北京で開いた党創立90周年の記念大会で誇らしげに語った。
しかし、トウ小平が1970年代末から始めたこの社会主義市場経済は、80年代末期に重大危機に直面した。一党独裁下で計画経済から市場経済に移行を始めると、党・政府幹部やその一族が物資を隠匿、転売して深刻な物不足とインフレを招き、89年の天安門事件に至る大混乱を招いたのだ。
■利害一致で「蜜月」
前後して東欧の社会主義諸国が相次ぎ崩壊、91年末には“総本山”のソ連も瓦解(がかい)した。中国内では陳雲ら保守派長老を中心に、トウ小平の推進する改革・開放政策への反対が強まった。
しかし「ソ連・東欧崩壊の主因は計画経済による発展の遅れにある」とみたトウ小平は反撃に出る。92年2月の広東省など南部訪問で、「発展こそ固い道理で社会主義にも市場はある」と力説、市場経済による発展加速へ大号令をかけた。
これが天安門事件後の経済低迷にあえぐ地方政府や国民の熱い支持を得て、中国経済は一気に2桁成長軌道に乗った。
さらにソ連崩壊は、69年の中ソ国境武力衝突に代表される北方の大きな脅威を除去してくれた。中国は米国とは72年のニクソン大統領(当時)訪中後、関係修復を進めていたから、これで全力を経済発展に注げる環境が整ったわけだ。
「好機到来」とばかりに中国はロシアに接近、エリツィン、プーチン両政権と「蜜月」ぶりを誇示する良好な関係を築いてきた。国家再興を急ぐロシアと富国強兵をめざす中国にとっては、領土問題で争うよりも、経済・安全保障面で協力する方の利益がはるかに上回っていたからだ。
加えて中露は冷戦後、唯一の超大国となった米国の世界覇権が自国に及ぶことを防ぐ必要があった。
■露には移民警戒論
中露両国は94年に「建設的パートナーシップ」を結ぶことを宣言、2年後にはこれを「戦略的パートナーシップ」に格上げした。2001年に善隣友好条約を結んでさらに関係を強化、04年、最終的な国境協定でも妥結した。翌年には初の合同軍事演習を山東省で実施した。イラクのフセイン政権を滅ぼした米国を牽制(けんせい)する動きとも読めた。
今月のプーチン首相訪中では、善隣条約締結10周年に当たり中露双方が「協力関係の拡大深化」で合意した。しかし両国関係の今後には起伏もありそうだ。過疎化が進むロシア極東部では、中国移民に対する警戒論が根強くある。
ロシアの有力な対中輸出は石油・天然ガスと兵器だったが、兵器輸出は急減。ロシア側には「先進兵器を中国にコピーされた」との不満が強い。
エネルギーの価格交渉も中国主導で進み、天然ガスについてはまだ合意できていない。
来年の選挙で大統領復帰が確実なプーチン首相は、旧ソ連圏諸国を統合した巨大経済圏「ユーラシア連合」形成の構想を示している。プーチン体制下でロシアの復権が進めば、中国との角逐が再燃する可能性も否定できない。
(4)負の遺産継承、強化する北
source : 2011.10.30 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
「ソ連の崩壊には韓国も一役買った」との見解が韓国にある。評論家・趙甲済氏(元「月刊朝鮮」編集長)などがそうだが、「歴史的に見て1988年に開催されたソウル・オリンピックがソ連崩壊を促した」というのだ。
ソウル五輪に先立つ80年のモスクワ五輪は、西側諸国がソ連のアフガニスタン侵攻に抗議しボイコット、次の米国での84年ロサンゼルス五輪はソ連など共産圏諸国がボイコットした。
五輪を舞台に対立した東西両陣営は、88年ソウル五輪ではそろって参加。ソ連をはじめ共産圏諸国は、同じ共産圏の北朝鮮と激しく対立する分断国家の一方のソウルを“支持”するかたちになった。
■極端な指導者崇拝
北朝鮮はソウル五輪阻止のため大韓航空機爆破テロ(87年)まで引き起こしたが、共産圏諸国の“ソウル行き”を防げなかった。その後、ソ連は韓国と国交を結び(90年)、翌91年に崩壊する。ソ連に“裏切られ”、後ろ盾を失った北朝鮮は92年に憲法を改正。それまで存在した「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」「プロレタリア国際主義」という言葉がすべてなくなった。
ソ連崩壊で実は北朝鮮も共産主義国家ではなくなったのだ。
その代わり北朝鮮は「主体思想」の名の下に、「最高指導者への絶対服従と無条件忠誠と権力世襲」という極端な“個人崇拝国家”になった。共産主義体制の核心は党のはずだが、北朝鮮では朝鮮労働党の党大会は80年以来、開かれていない。ひたすら「金日成・金正日・金正恩」の世襲指導者への崇拝が強調されている。
故金日成の側近で、先ごろ亡くなった亡命者の黄長●・元労働党書記は「北朝鮮は封建時代の王朝国家と同じ」と語っていた。北朝鮮はソ連の体制崩壊を横目に“王朝回帰”で自らの体制維持を図っている。
■現代史の“鬼っ子”
北朝鮮の核開発もソ連崩壊の結果とする見方が韓国では強い。ソ連の軍事的保護・支援がなくなったため、自前の安全保障として核開発に積極的に乗り出したというわけだ。
北朝鮮は45年の日本敗戦後、米国との対立関係からソ連によって造られた。建国の指導者・金日成はソ連軍大尉出身だった。
独裁者・金日成への個人崇拝は旧ソ連のスターリン個人崇拝に由来するが、このほか官僚主義や国民監視体制、民生無視の軍需優先経済、大規模な強制収容所など、ソ連の悪は北朝鮮で強化されて引き継がれた。
ソ連の“負の遺産”を封建王朝国家として拡大再生産している北朝鮮は、ソ連が生んだ「現代世界史の鬼っ子」である。
ソ連共産主義はレーニンやスターリンの後、西側との平和共存を言い出したフルシチョフや、改革・開放を進めたゴルバチョフら新しい指導者の登場で変化-崩壊にいたった。
「最後まで残ったソ連」ともいうべき北朝鮮にいまだ変化-崩壊の兆しはうかがわれない。ソ連崩壊の経験から北朝鮮の変化に向けたいいヒントは探せないものか。
番外編 急成長するアゼルバイジャン 大国に「ノーと言える国に」
source : 2011.10.27 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
旧ソ連圏・アゼルバイジャンのギュルセル・イスマイルザーデ駐日大使(40)がインタビューに応じ、ソ連崩壊から20年がたち、石油資源の輸出で急成長を遂げる国の現況を踏まえ、「経済的に自立し、独立直後の混乱期を完全に脱した」と述べた。24日には国連安全保障理事会の非常任理事国に初選出。ロシアやイランなどとの善隣外交を維持しつつも、「大国に対して『ノー』と言える力を持てるようになった」とも答えた。
8月に着任した大使は1996年に初来日。上智大学で日本の海外政策を研究し博士号を取った。日本の歴史や社会に詳しく、祖国の現状を明治維新後の日本になぞらえる。
「鎖国から解かれ、福沢諭吉のように、意欲的に若者が海外へ旅立っている」
ソ連時代、西側諸国への渡航は困難で、良い仕事に就くためにはモスクワで学ばなければならなかった。“ソ連のくびき”から放たれた今、留学先の選択肢が広がり、優れた技術や制度を若者が持ち帰っている。大使も留学組の1人だった。
カスピ海沖の石油、天然ガスを輸出するパイプラインを整備して以来、経済は急成長。国内総生産(GDP)は独立時の4倍以上になり、旧ソ連諸国でもトップレベルだ。
外交ではロシア主導の枠組みに完全に従うこともない。「大国に依存しないために一層の経済成長が大事だ」と話す。資源の乏しい日本には「エネルギー安全保障分野で貢献できる」と関係強化に意欲を見せる。
国連安保理非常任理事国としても国際的な責任が増す中で、2020年の夏季五輪に首都バクーが立候補し、東京と競う。大使は「五輪立候補は大きなチャレンジ。今後は開発国支援にも積極的に関わっていきたい」と話した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【用語解説】アゼルバイジャン
ソ連構成の共和国だったが1991年に独立を宣言。人口約890万人でイスラム教シーア派が7割を占める。面積8万6600平方キロで北海道よりやや大きい。94年から外国資本を元にカスピ海沖油田を開発。2006年には首都バクーからグルジア、トルコを抜けるBTCパイプラインが完成、原油の本格出荷が始まり高成長を続ける。アルメニア系住民が住むナゴルノカラバフ自治州の帰属をめぐり、アルメニアとの間で紛争に発展していたが、1994年に停戦合意し和平調停が進められている。
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