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source : 2011.02.18 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■「IT立国」襲った危機
役所や銀行に「行く」というのが、この国では死語になった。20年前にソ連から独立した小国、エストニア(人口約134万人)が「電子国家」の構築で世界の最先端を走っている。
15歳以上の国民全員にIDカードが与えられ、これでインターネットにアクセスすれば、会社の登記や納税を含む全ての行政手続きはもちろん、選挙での投票、銀行決済から学校の宿題までパソコン一つで行える。駐車場や交通機関の支払いは携帯電話で可能だ。
「この分野でエストニアのライバルはシンガポールくらい。昨年は外国から269もの視察団が来た」
首都タリンにある電子行政の展示施設「ICTデモセンター」のビムベルグ所長(29)はこう語り、「電子化で行政の効率と透明性は高まった」と胸を張る。
北方領土問題で日本への強硬姿勢を誇示するロシアも、その内実は汚職大国だ。“賄賂市場”が国内総生産(GDP)の42%にのぼるとの推計もある。これに対し、エストニア指導層が「IT立国」を自国のアイデンティティーとして明確に追求し、この20年間で出した成果はめざましい。
そのIT大国が最大の危機に直面したのが2007年4~5月、ロシアなどからの大規模なサイバー攻撃に見舞われた時だった。政府機関や銀行のコンピューター・ネットワークが一時まひした。「世界初のサイバー戦争」である。
■エストニア、ロシア系に疎外感
▼銅像移転で爆発
「世界初のサイバー戦争」は、一体の銅像をめぐって起きた。ソ連が第二次大戦での対ドイツ戦勝利を記念し、エストニアの首都タリン中心部に建てた「青銅の兵士」像である。
政府が2007年4月、この銅像を郊外の戦没者墓地に移転すると、反発したロシア系住民の大規模な暴動が発生。サイバー攻撃はこれに呼応して始まり、世界中からのアクセス集中で政府機関などのサイトやネットワークがまひした。
こうした攻撃での「犯人」特定は困難だ。確かなのは、人口の約3割を占めるロシア系が「自らのアイデンティティー」とみなしていた銅像の移転で憤懣(ふんまん)を爆発させ、ロシアがこれに乗じてエストニアへの圧力を強めていたことだけだ。
ソ連という帝国が崩壊すると、取り残されたロシア系住民はそれまでの「支配者」から「被支配者」の側に転落した。
ロシア系の人権擁護活動に取り組むセミョノフ氏(63)は「最も過酷かつ衝撃的だったのは言語政策だ」と話す。
新制エストニアはエストニア語を唯一の公用語とし、ソ連時代に移住してきた住民には初級エストニア語の試験に合格することを市民権(国籍)付与の条件とした。今もロシア系の約半数がロシア国籍や「非市民」(無国籍)であり、社会参加に制約を受ける。
あらゆる職業について「必要なエストニア語力」が国家試験のランクにのっとって定められ、「違反」すれば罰金も科される。
▼言語と文化の危機
エストニアはソ連に併合されていた1940年から91年までに、独ソ両軍の徴兵やソ連によるシベリア連行、国外脱出などで国民の4分の1を失った。だが、独立回復後の厳しい言語政策は、かつての支配者に対する「怨念」だけでは説明できない。
「ソ連の移住政策でロシア人が大量に流入し、エストニア語とエストニア文化は危機に瀕(ひん)していた」。社会学者のサール氏(64)はこう述べ、「ロシア系住民に自動的に市民権を与えれば、エストニア語の必要性が薄れる。これは少数民族にとって重大な問題だった」と指摘する。
ソ連体制下ではバルト三国も中央集権経済に組み込まれ、特にエストニアとラトビアへは工業化のためにロシアなどから労働力が投入された。エストニアでは、第二次大戦前に人口の9%だったロシア系が89年には4倍の35%に達した。
ソ連は「諸民族は融合する」との共産主義イデオロギーに基づき、「ソ連人」の創出を唱えた。だが、現実は少数民族だけが一方的に母語とロシア語のバイリンガルであることを求められるロシア人優位だった。
▼「解放」一転「占領」
ソ連解体後のバルト三国では、ロシア系の少なかったリトアニアだけが基幹民族以外にも無条件で市民権を与えた。
現在、エストニアでは大学教育が事実上、エストニア語だけで行われ、ロシア語学校でも段階的にエストニア語による教育比率を増やす「統合政策」が進む。かつて「ソ連はナチス・ドイツからエストニアを解放した」としていた歴史教科書は一転、ソ連時代を「占領期」と記している。
こうした状況で、ロシア系住民がなおも精神的よりどころとしたのが「ソ連=解放者」の歴史観であり、冒頭の銅像はその象徴だった。
エストニア人とロシア系では失業率や平均所得などに開きがあり、ロシア系が社会的疎外感を抱いているのは間違いない。ロシア系は麻薬・アルコールの乱用率も高い。ソ連の民族政策がエストニア人とロシア系の間に生んだ溝は深く、それはロシアの内政干渉をも招きかねない社会の不安定要因となっている。
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エストニアなど旧ソ連のバルト三国では、ちょうど20年前の1991年2~3月、国民投票で74~90%が独立に賛成票を投じ、ソ連体制に明確な「ノー」を突きつけた。だが、独立とソ連解体がもたらしたのは、決して「光」だけではない。第1部では、今も旧ソ連諸国を悩ませる民族・宗教問題の現状を伝える。
(2)
source : 2011.02.19 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■「スターリンの境界線」なお
「家から数百メートル逃げたとき、頭のすぐ横を2発の銃弾がかすめた。彼らは子供連れの私を狙ったのよ」
キルギス南部オシのウズベク系居住区に住むサヒバさん(32)が淡々と話した。赤レンガ造りの自宅は黒こげで見る影もない。周辺には同様に放火されて焼けた家が並ぶ。
旧ソ連の最貧国キルギス。人口約548万人(キルギス系69%、ウズベク系15%、ロシア系9%)で年間平均所得は870ドル(約7万円)。産業は首都ビシケクがある北部に集中し、南部には働き口もない。サヒバさんの夫もモスクワに出稼ぎに行ったきりだ。
キルギス系とウズベク系の住民がオシで衝突したのは昨年6月。前大統領の亡命を機に双方が暴行や放火、殺人を繰り広げた。政府の調査委員会は少なくとも400人の死者を確認、市庁舎には行方不明者の消息を求める看板が立つ。
「キルギス系は信用できない」「今度、ウズベク系が歯向かってきたら国からたたき出す」。1月中旬に訪れたオシの人々は、互いへの憎悪を隠さなかった。
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オシ近郊ではソ連崩壊直前の1990年にもキルギス系とウズベク系が衝突、約300人が死亡した。オシ国立大歴史法学部のウライモフ教授(55)らによると、両者は60年代にも衝突したが、ソ連の情報統制で隠蔽(いんぺい)されたという。
度重なる民族衝突の根源を探ると、24年のソ連国内の境界画定に行き着く。共産党中央委員会は帝政ロシアの支配下にあったこの地域に「カラ・キルギス自治州」を設立、ウズベク系住民が多数を占めていたオシなど都市部を自治州に組み入れ、隣接するウズベク社会主義共和国と分離した。
ソ連の農業集団化政策でキルギス系の定住化も進んだが、都市部のめぼしい土地はすでにウズベク系の手中にあった。現代まで続く両民族の確執の原点だ。
自治州の境界線は91年のキルギス独立後も国境線として残った。ともにイスラム教を受容した遊牧民を祖としながら、イランの影響を受け商才にたけたウズベク系はバザールやレストランの支配権を握り、キルギス系をあごで使っている。
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歴史学者で元キルギス国会議長のクルマノフ氏は24年の境界画定に際し、「当時、民族問題人民委員(民族相に相当)で党書記長だったスターリンが大きな役割を果たしたことは疑いない」とした上で、諸民族が平等に暮らすソ連-というスローガンを西側に誇示する狙いだったとの見方を示した。
キルギスはソ連編入で識字率が100%近くに達し、インフラ整備など文明化の恩恵にも浴した。しかし、中国に接し米露が軍事基地を置くキルギスは今、大国が綱引きを展開する草刈り場と化した観がある。
モスクワ国際関係大学のグセフ上級研究員は、ソ連が引いた境界線に端を発する民族対立のケースとして、ルーマニアから獲得したベッサラビア(40年)▽グルジアに編入したアブハジア(21年)▽ポーランド分割(1772~95年)で獲得した西部ウクライナを挙げた。
いずれも、ソ連の「ロシア化政策」に抵抗して民族的アイデンティティーを固持し続けた地域で、ここ数年の間に政争や住民の暴徒化を招いたことでも共通する。親露、反露という両極端の感情を住民に植え付けたことが、民族融和を難しくしている。
ソ連が消滅して20年たってなお、「スターリンの境界線」が現代の人々にもたらす負の遺産の重みは、少しも変わらず残っている。
(3)
source : 2011.02.20 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■イスラム流入 崩れるバランス
毎週金曜日の昼、ロシアの首都モスクワのソボール・モスク(イスラム教礼拝所)周辺は数千人の信者で埋め尽くされる。金曜礼拝に集まったものの、モスクに収まりきらなかった人々だ。信者らは敷物を雪の上に並べ、スピーカーの説教を聞いて集団礼拝をする。大半はロシア南部・北カフカス地方や旧ソ連・中央アジア諸国の出身者だ。
「10~15年ほど前にはこのモスクが満員になることはなかった。今は金曜日の午前に扉を開けて30分で埋まる」。モスクの主任イマーム(指導者)、アリャウトジノフ師(32)はこう語り、「礼拝参加者が急激に増えたのは(イスラム地域から)大量の出稼ぎ労働者が来たからだ」と話す。
「無神論」を掲げたソ連の崩壊後、カフカスや中央アジアではイスラム教が再興。市場経済化で労働力の移動も自由になり、今やイスラム系の労働者が事実上、無制限にモスクワへ流れ込んでいる。多くは建設関係や清掃、除雪など低賃金労働に携わり、1千万人都市を下支えしている。
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この構図はしかし、首都など大都市部で“新しい民族問題”といえる深刻な状況を生んだ。移民流入に反発する極右のロシア民族主義が勢いづき、民族間の緊張が危険水域に入っているのだ。モスクワでは昨年12月、民族主義者とカフカス系住民が大規模に衝突しかねない事態となった。
同月11日、クレムリン前のマネージ広場で、民族主義団体によって煽(あお)られたサッカーファンの若者ら最大1万人が「ロシア人(民族)のためのロシアを」などと叫んで暴徒化し、カフカス出身者らを襲撃。次いでカフカス系が報復を計画しているとの情報が出て、治安当局は騒乱を起こそうとした1300人以上を拘束して凶器類を押収した。
「反政権のリベラル派がせいぜい数百人のデモしか行えないのに、民族主義者が何千人もの若者を動員したことに政権は大きな衝撃を受けた」。こう語る在モスクワ・カーネギーセンターのマラシェンコ氏(60)は「次に(社会・経済的)危機が来れば、民族主義が反政権派の中心的思想になるだろう」と警告する。
「諸民族は平等」としていたソ連のイデオロギーが消失した後、ロシアは世界有数の多民族国家を束ねる理念や価値観を打ち出せずにいる。ロシア民族主義は「敵」の存在で団結する伝統的な民族心理に乗じ、少数民族や外国人を不満のはけ口として台頭した。
民間調査機関のSOVAによれば、昨年は民族主義者による襲撃で少なくとも死者37人、負傷者368人が出ている。
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ロシアは帝政時代からタタルスタンやバシコルトスタン、カフカスなどイスラム地域を抱え、イスラム教は伝統的なロシア第2の宗教だ。イスラム教そのものには寛容だったのがロシアであり、たとえばモスクワでイスラム過激派によるテロが起きてもスカーフ姿の女性に対する攻撃的行動は少数にとどまる。
それでも昨年、モスクワでモスクの新設計画が出たときには民族主義者や住民が猛反発。イスラム教の祝日「犠牲祭」に信者が街頭で羊を解体したといった情報が派手に伝えられ、民族でなくイスラム教を問題にする議論も目立ってきた。
民間団体「カフカス諸民族会議」のトトルクロフ執行議長(49)は「カフカス系だけでもモスクワに100万人おり、モスクが首都に4つでは全く足りない。犠牲祭の羊解体も、屋内でできる場所や条件がないことが問題なのだ」と行政の支援を訴える。
ロシア人が、存在感を増しつつあるイスラム教とどう共存するのかが問われている。
(4)正教に近づく政権 危うい賭け
source : 2011.02.21 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
「その外套(がいとう)はオレのだ」
「靴下はないのか」
昨年12月28日夜、モスクワ市北東部のコムソモリスカヤ広場。氷点下10度近い冷え込みのなか、人々が衣類の奪い合いを始めた。
市街中心部のロシア正教会「殉教者タチアナ教会」に通う若者たちが週に1度、実施している奉仕活動の一幕だ。集まったのは浅黒い顔の中年男女で、イスラム教徒が多い中央アジアから出稼ぎにきた人々。
「宗教や国籍は一切聞かない。人はみな自分のことだけするのではなく、少しでも他人を助けるべきだと思う」。異臭漂う人々の輪のなか、外資系コンサルタント企業で働く正教徒のチェスノコフさん(25)が話した。
ロシア正教会は、キリスト教の三大分流の一つである東方正教会の中心的教会。10世紀、コンスタンチノープル(現トルコ・イスタンブール)からキエフ(現ウクライナ)に入り、14世紀以降、モスクワに中心が移ったとされる。
140もの民族が混住するロシアで、最大宗教の正教会が垣根を越えて救いの手を差し伸べるのは珍しいことではない。
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ロシアの人口(約1億4100万人)のうち80%がロシア系だ。ロシア正教会は人口の53%に当たる推定7500万人の信徒を擁する。
宗教誌「ラドネシ」のニキフォロフ編集長によると、政府は昨年、正教に次ぐ信徒(推定2千万人)を抱えるイスラム教組織に、教育振興のため15億ルーブル(約43億円)を供与した。「ロシアは世俗国家で、国教は設けない」(第14条)という憲法の通り、各宗教に平等であろうとする政府の姿勢の表れといえる。
しかし、プーチン前大統領時代を境に、政権が正教に急接近していることも公然の事実だ。
正教の降誕祭(1月7日)など重要な記念日にはメドベージェフ大統領やプーチン首相が正教会を訪れて祈る。軍の駐留拠点にも聖職者を配置し、祈りの場を設けるという方針を大統領自ら後押ししている。
ロシア正教については、昨年の世論調査でも67%が「信頼する」と答えている。「世俗国家」の看板を掲げる一方、権威を高めるため正教の影響力に頼る政権の思惑が浮かび上がる。
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ロシア正教には「闇」の歴史もある。ピョートル大帝の18世紀以降は、圧政を敷く国家の一機関として管理されていた。「無神論」のソ連時代には政権から迫害を受けたが、裏では反体制派の摘発を手助けするなど国家の先兵にもなった。
ロシア科学アカデミーのベンディナ研究員は、現政権が正教に接近する狙いとして、
(1)「帝政期の皇帝(ツァーリ)の継承者」であると国民に知らしめる
(2)盲目的な信仰心により議論や批判を封じ、従順な国民性を形成する
-などがあるとみる。その上で、正教への接近は「ロシア民族主義者をつけ上がらせ、他民族の反体制派の団結を促すことにもなる」と、政府の方針に疑問を投げかける。
こうしたなかメドベージェフ大統領は1月、「私たちの多民族の文化に配慮すべきだが、ロシア民族の文化には特に注意を払うべきだ。これは基本であり骨組みである」と述べ、正教はロシア文化の重要な一要素であると強調してみせた。
ソ連崩壊以降、国民統合の理念や価値観を打ち出せないロシア。政権が接近を強める正教は「諸民族の紐帯(ちゅうたい)」になりえないばかりか、芽が出始めた民族対立の先鋭化さえもたらしかねない。政権の「危うい賭け」の行き着く先はまだ、みえない。
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