source : 2015.04.21 zakzak (ボタンクリックで引用記事が開閉)
慰安婦報道や福島第1原発事故「吉田調書」報道の誤報と記事取り消しなど、報道機関としての姿勢を問われている朝日新聞社。同社の内幕を記したOBの著書が話題となっている。朝日を代表する大物記者たちが次々と実名で登場、人間性をあらわにするような行状が紹介される。さらには、現在の朝日的論調を方向付けた可能性もあるという“秘密会合”が存在していたことも明かしているのだ。
『ブンヤ暮らし三十六年 回想の朝日新聞』(草思社)を書いた永栄潔(ながえ・きよし)氏(67)は1971年に朝日に入社し、富山、大津支局を経て経済部、「週刊朝日」「月刊Asahi」副編集長、「大学ランキング」「週刊20世紀」編集長などを歴任した。
ダイエー創業者の中内功氏やセゾングループの堤清二氏らの人間性を示す逸話や、大韓航空機を爆破した金賢姫元死刑囚のインタビュー秘話など記者時代のエピソードが盛りだくさんだが、見逃せないのが朝日社内の描写だ。
「狂犬。破壊分子。極左で極右」「ベトナム戦争のことでも中国や北朝鮮のことでも、朝日にケチばかりつけて、産経の肩を持つ」と上司に評されたという永栄氏が現役時代に接した“大物記者”たちの様子が紹介されている。
朝日のリクルート事件で、経済部長当時の箱島信一氏が「何が問題なんだね。ただの経済行為だろ」と話していたのが、編集局長に昇進後のパーティーでは「戦後最大の汚職事件」と述べたことに驚いたことも振り返る。箱島氏はその後社長になった。
永栄氏が週刊朝日編集部員当時には、ワシントン特派員の船橋洋一氏(のちに主筆)の友人の原稿がボツになったところ、「もしも載らなかったら、経済部に戻さない」「載らなければ、社にもいられなくなるぞ」と激怒されたという。
中国やベトナムのルポで知られ、退社後は「週刊金曜日」を創刊した本多勝一元編集委員が山岳事故の取材で富山支局を訪れた際のエピソードも明かしている。本多氏は「酒、ありますか? 酒がないと原稿が書けない」と言うと、支局長の命で永栄氏が調達に走ったという。
元主筆の若宮啓文氏の友人の現役官僚が月刊Asahiに役所の内幕を寄稿した際のエピソードも。原稿が印刷に回る直前、「原稿を当局との取引材料にしていて、話がまとまれば原稿を引き揚げる」という若宮氏の話を伝え聞いた永栄氏は激怒した。「今にして思えば、若宮氏は友人の行く末を案じ、上司ともう一度話し合うことを勧めたのだろう」と振り返る。
このほか、昭和天皇崩御の際に「崩御」という言葉を使うことに強く反対した本田雅和記者と論争になった話、さらには共産党の機関誌「前衛」の原稿用紙を使っていた論説委員などの話も紹介されている。
そして、1960年代から70年代にかけて一部の学者と朝日のデスクたちが月に一度、開いていた「二木(にもく)会」という勉強会の存在についても記している。永栄氏は、「会の名称は正確ではないかもしれない」としたうえで、「ソ連や中国、北朝鮮報道などについて1つずつ朝日の紙面の方針を固めていった可能性がある。60年代までは多様な論調の識者が登場していたのが、70年代以降、左派文化人ばかりになった」と振り返る。
朝日の「異論を認めない窮屈さ」は現在も続いていると永栄氏は指摘する。昨年9月、「吉田調書」の記事を取り消し、読者に謝罪した紙面では、天声人語や素粒子などのコラムや読者投稿、歌壇・俳壇、川柳までがこの問題を取り上げた。永栄氏は「“1億総ざんげ”のような違和感を覚えた」という。
朝日OBとして「若手記者にツケを残した忸怩(じくじ)たる思いがある」という永栄氏。「われわれの仕事は関係者や専門家に会って徹底的に疑問をただすこと。慰安婦問題なら、日清、日露戦争当時はどうだったのか、他国はどうだったのかなども調べ、誠意を持って読者に伝えることしかない」としたうえで、「事実より理念で書く新聞も必要ではあるが、“日本は開国以来悪かった”というような新聞が800万部も必要なのかは疑問だ」と苦言を呈した。
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