source : 2003.06.28 全国戦友会連合会 (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■要旨
昭和12年の南京戦において東京日々新聞が「野田毅、向井敏明少尉が前線で中国兵を斬り倒し、百人斬りの競争をしている」と言う戦意昂揚の創作記事を4回にわたり掲載した。
戦後この記事が唯一の根拠となり、両少尉は昭和22年11月南京軍事裁判所で、捕虜・住民虐殺の罪で起訴、即日死刑を言い渡され、同年12月銃殺されたが、百人斬りの報道が虚報であるにもかかわらず、以後現在まで訂正されていない。
さらに本多勝一は昭和46年より朝日新聞に「中国の旅」を連載、その中で「百人斬り」を掲載しただけでなく、最近では書籍「南京への道」「南京大虐殺13のウソ」でも捕虜を据え物斬り競争をしたと実名入りの記述をして、死者に鞭打ち、遺族の人権を踏みにじった。この「中国の旅」が発端となって論争が起き、更に資料も発掘されて、百人斬りのウソが明らかになったが、本多はこれを認めず、名誉を毀損し続けている。
そこで遺族等は本年4月28日、我慢の限界を超えたとして、本多勝一、朝日新聞、毎日新聞(当時の東京日日新聞)、柏書房(南京大虐殺13のウソの出版社)を相手取り損害賠償と謝罪広告を求めて東京地裁に提訴した。以下訴訟までの経緯と訴訟の要旨につき説明する。
■報道
■冤罪と判明
- 当時の報道
- 昭 12.11.30 東京日々新聞が両少尉は百人斬り競争を企てたと報道
- 昭 12.12.04 第2報
- 昭 12.12.06 第3報(野田89名、向井78名斬る)
- 昭 12.12.13 第4報(野田105名、向井106名。更に150名斬りを目指すと写真入りで報道)
- 朝日新聞;昭46.11.5 より本多勝一の記事「中国の旅」を連載し、二人は上官にけしかけられ、百人斬り競争を行ったと伝聞記事を掲載。
- 本多はその他の著書「南京への道」「南京大虐殺13のウソ」でも同様の記事を載せた。
以上の論争を経て我が国では百人斬りが虚報だったと判明したが、関係者の謝罪はなかった。
- 月刊誌「諸君」昭47年1月号~48年10月号でイザヤ・ペンダサン、鈴木明、山本七平が「百人斬りは虚構」と論評。更に鈴木明、ペンダサンは自著でも虚報と発表した。
- 昭和46年田所千恵子(向井少尉の娘)は両少尉に対する判決文を含む資料を法務省から入手し、その一部が平成12年1月産経新聞と月刊誌「正論」に公開され、これにより南京軍事裁判の不公正さが明らかになった。
- 平成13年3月野田マサ(少尉の妹)は野田少尉の遺品の中から少尉の手記を発見、その中に東京日日新聞記事の真相は浅海記者に持ちかけられた創作であったことが記されており、その内容が「正論」平成13年8月号に掲載された。
- 浅海記者は南京の軍事法廷に説明書を提出し「百人斬りは住民・捕虜に対する残虐行為ではありません」と弁護している。
■訴訟の内容
- 原告:向井少尉遺族(田所千恵子、エミコ・クーパー)野田少尉遺族(野田マサ)
- 被告:本多勝一、朝日新聞社、毎日新聞社(元東京日日新聞社)、柏書房
- 訴因:上記3書籍の中で、百人斬りに関する記述が原告等遺族の名誉を毀損しているから「出版の差し止め」「謝罪広告」「損害賠償」を求める。
「百人斬り」第六回法廷報告
source : 2004.07.12 全国戦友会連合会 (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■歴史認識を覆す佐藤振壽氏の証言 / 國安 輝久
佐藤氏は91歳、昭和12年南京攻略戦に元東京日日新聞のカメラマンとし て従軍し、南京大虐殺記念館に展示されている向井、野田両少尉の写真を撮 ったまさに「百人斬り」の真実を知る唯一の生き証人である。
裁判長は被告本多と毎日新聞の反対を退け、原告申請の佐藤証人の尋問を認 め今回の証言が実現したものである。
車椅子に乗り、看護婦等の付き添いのもと出廷した佐藤証人は堂々たる態度 で法定を圧倒した。
途中休憩を挟んだものの約2時間に及ぶ緊張した法廷で、途中、血圧計が二 百を越し、看護婦が原告代理人に証人尋問の中止を提案したほどであったが 佐藤証人は最後まで尋問を続行することを望まれ、南京戦の真実を知る者の 責務を見事果たされたのである。その姿は法廷にいるすべての者に感動と勇 気を与えた。
裁判長も佐藤氏の健康を気遣い色々と細かな配慮を示し、本多の代理人が南 京城内の捕虜処断に質問を拡大しようとし、原告代理人が異議を述べたこと について、本多の代理人の質問を制限するなど見事な訴訟指揮により、佐藤 氏の主尋問、反対尋問を時間内に収めた。
佐藤証言の主なるものは次の通りであった。紙面の都合で細部を省略し、重 要事項だけをご報告する。
- 無錫で両少尉に会っていない、常州で浅海記者に両少尉の写真を撮るよ うに頼まれ、太陽光線を考えて常州城門の側で写真撮影した。 (註・これが現在も残っている有名な両少尉の写真である)
- 両少尉はこれから(つまり常州から)百人斬り競走を始めると話していた。
- 両少尉が当番兵を取替えっこして斬った中国兵の数を数えると聞いたが、 信じなかった。(本多の代理人の執拗な反対尋問に対し)新潮で私が納得し たように書かれているが、断じて納得していない。そのように書いたのは新 潮の記者であって私は納得していない。
- 翌年の昭和13年上海で「百人斬り」の記事を見たが「嘘っぱちを上手 く書いたな」と思った。
- 当時日本軍は苦戦していたので大隊副官と歩兵砲小隊長が第一線で刀を 振り回してチャンバラをするような戦況ではなかった。そもそも南京戦は近 代の銃撃戦でチャンバラではない。
- 殺人ゲームとか上官からの命令という話は二人からも聞いていない。
- 戦後浅海氏が東京裁判に呼ばれた時に「嘘だ」と一言言えば良かったのだ。 自分も呼ばれるかもしれないと浅海氏から聞いたが呼ばれなかった。
- 陸軍の検閲があったが戦意高揚の記事ということで、法螺話を通してし まったことにも責任がある。
- 南京軍事法廷に自分が撮った両少尉の写真が提出され、これが証拠とな って二人は銃殺されたが遺族に対して本当に申し訳ないと思っている。
- 現在南京大虐殺記念館に私の撮った二人の写真が虐殺の証拠として展 示されていることに腹が立って中共政府と喧嘩をしたいくらいだ。
- この問題について私に何の取材もせずに「百人斬り」を書いた本多勝 一と朝日新聞はジャーナリズムとして失格である。
概要以上の通り明快にしっかりと証言された。証言前に今まで保存してい た同氏の南京戦従軍当時の日記を証拠として裁判所に提出した。
佐藤証人の証言は首尾一貫しており、相手側代理人の質問に対しても少しも 臆することなく、きっぱりと、法螺話であると断言されたのが印象的であった。
なお、本年4月号に「浅海記者は北京勤務した」と記載したが佐藤氏から 「浅海氏が北京に行ったのは毎日退職後である」とのご指摘がありましたの で、遅くなりましたがお詫びして訂正します。
佐藤氏の速やかな健康回復とご長命を祈念致し、佐藤さんの勇気ある証言に より、「百人斬り」訴訟前半最大の山場を成功裡に終了出来た事を深く感謝 致します。
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